『伊東マンショの肖像』

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尊者チマッティ師と一度会ったことがあります。1962年、宮崎日向学院の体育館の落成式に東京から見えた師が3日間ほど修道院に滞在されました。当時宮崎にあったサレジオ志願院の中3だった私はチマッティ師の司式したミサの侍者を務め、聖体降福式でオルガン演奏をなさる師の姿を目に刻むことができました。師が帰天なさる3年前のことでした。

落成した体育館は『ITO MANSIOホール』と命名され、お祝いにイタリアからアリゴ・ポーラというオペラ歌手も来宮、花を添えました。それだけではありません。アリタリア航空の日本への初就航を機に、日向学院中学2年の井手口和満君が天正少年使節を記念する派遣団の一員として、ローマに行き、当時のヨハネス23世教皇様との面会も実現、新聞などにも大きく取り上げられました。それらの出来事のおかげもあり、宮崎では地元出身の伊東マンショの存在が少しずつ意識されるようになっていきました。

伊東マンショは日向都於郡の城主・伊東修理祐青の子で、飫肥城主・伊東祐兵の甥、府内の大名・大友宗麟の遠縁にあたります。1582年2月、巡察師ヴァリニアーノに伴われ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノとともに長崎を出発し、マカオ、ゴアを経て84年8月にポルトガルに赴き、スペインのマドリードでフェリペ2世に謁した後、ローマに着き、85年3月教皇グレゴリオ13世に謁見してその使命を果たしました。

1590年7月に長崎に帰着。翌91年3月、聚楽第において関白豊臣秀吉に謁し、同年7月に他の3人とともに天草のイエズス会修練院に入会します。1601年からマカオで3年間神学の勉強に励み、帰国。1608年司祭叙階。1612年、迫害が激しくなる前に、長崎で病死しました。

2014年3月、ミラノのトリヴルツイオ財団はドメニコ・ティントレット(1560-1635)筆「伊東マンショの肖像」の存在と、使節団がヴェネツィアで公式に歓待された事実が合致すると発表、歴史的な大発見となりました。

現在、上野の東京国立博物館で特別展示されています。7月10日までです。1708年屋久島に上陸したシドッティ師持参の「親指の聖母」も展示されています。皆さんも出かけてみませんか。

主任司祭 松尾 貢

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