​誘惑(続き)

アイキャッチ用 チプリアニ司教

チプリアニ司教チプリアニ司教によると、誘惑は、主に2通りの方法で襲ってくる。一つは、自堕落でいい加減な生活を送っている人に。彼らは、おそらく誘惑を誘惑とも思っていないか、自覚していない。もう一つは、しっかりと真面目に生きている人の場合。ちょうどヨブについての場合である。神はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」(ヨブ記1章12節)。さらに、主のご受難においてピラトに対して主が言われたことを思い出す。「神から与えられていなければ、私に対して何の権限もないはずだ(ヨハネ福音書19章12節)。

ヨブ記のように、種々の苦難に対して苦難と呼ばず、神の試練とみなして、謙虚に神の前に頭(こうべ)を垂れる、チプリアニ司教が、かかる心の境地にいたるまでどのような苦しみを味わってきたことか。とりわけ天災ではなく、人の底意地の悪さから来る迫害を思うとき、キリシタン禁教令のもと、筆舌に尽くし難い痛めつけにねじ伏せられた信徒の辛苦に相通じるものである。

司教の話はさらに続く。誘惑に陥らないように祈らなければならないだろう。なぜなら、自分の弱さ、弱点を思い出すべきである。自分の心の驕りに落ちないように、さらに不遜にも自分が何者かであるような思い上がった考えを抱かぬように、また、業績があたかも自分のものであるかのように振る舞うことがないように。迫害という過酷な試練に対していかなる過信を戒める裏には、多くの勇ましい殉教者を輩出しながら、さらに多くの信徒が拷問に耐えかねて背教していった悲しさを知った者の言葉である。

さらに主も私たちに誘惑に陥らないように目覚めて祈りなさいと諭しておられるではないか。心は熱していても体は弱いといわれる。人を愛することに極限まで突き進んだイエスでさえ、か弱さという人間の深い闇を知ったイエスの独り言を無視できない。

主任司祭 長澤幸男


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